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2026年5月15日金曜日

「久延彦 REPORT」(36):沖縄県民に告ぐ沖縄戦の真実

 5月15日は沖縄本土復帰記念日です。この日は1972年に沖縄が日本に復帰したことを記念する日であり、沖縄が米国の施政権から日本に返還されたことから、沖縄県が誕生した日であるとも言えます。本土復帰は、沖縄の人々にとってはとても大切な出来事であり、沖縄の歴史において最も重要な一日となっています。

 ところで、沖縄戦は大東亜戦争における日米最後の戦闘であり、日米最大の激戦でもありました。そして、この沖縄戦については、今でも「沖縄は捨て石にされた」と信じ込まされている人が多くいます。しかし、真実は真逆でした。沖縄は決して捨て石になどされていなかったのです。むしろ沖縄の防衛のために日本軍は最後の力を振り絞って奮闘しました。そして、日本全土から沖縄に向かった多くの将兵たちは惜しみなくその尊い命を捧げたのです。

2026年4月8日水曜日

「久延彦 REPORT」(34):「平和学習」はいかにあるべきか

  「平和学習」とはいかなるものなのでしょうか。沖縄の辺野古転覆事故をきっかけとして「平和学習」のあり方について議論されていますが、そもそも「平和学習」とはどのようなものであるべきなのでしょうか。結論から言えば、「平和」という言葉が、この問題の本質を見えなくさせているように思います。「平和学習」という言葉を聞いて、その学習を非難することはありませんし、ましてや平和学習そのものに異論を唱え、反論することなど許されないというのが現実です。それほど「平和」という言葉は、非難も反論も許さない絶対的な正義であるかのような言葉なのです。しかし、ここに盲点があります。誤魔化しがあるのです。そこで、「平和学習」はいかにあるべきなのか、その意義について考えてみようと思います。

 まず、最初に確認しておきたいのですが、平和を願う心はすべての人に通じるものであり、誰一人として平和を望まない人はいないということです。古今東西を問わず、すべての人は平和を希求してきました。そして、永遠なる平和を願い、恒久的な平和を祈り続けてきたのです。しかし、私たちは改めて自問自答しなければなりません。すべての人が平和を願い、平和な世界が実現することを心から祈り求めているのに、どうして平和が実現されていないのか。この問いかけは、私たちの思い違いを気づかせ、平和についての勘違いを明らかにしてくれるものなのではないでしょうか。

2026年3月11日水曜日

「久延彦 REPORT」(32):無罪を信じ続ける信念

 昭和59年の「日野町事件」(滋賀県日野町で酒店経営の女性が殺害され手提げ金庫が奪われた強盗殺人事件)で、無期懲役となり、服役中に病死した阪原弘(さかはらひろむ)さんの再審開始が決定しました。阪原さんの遺族が申し立てた第2次再審請求に対し、最高裁第2小法廷は2月24日付の決定で、再審開始を認めた大阪高裁決定を支持し、検察側の特別抗告を棄却しました。これによって、再審開始が確定し、大津地裁でやり直される再審公判において、無罪となる公算が大きくなりました。逮捕から38年、阪原さんの無実を信じ続けた遺族の信念が勝ち取った再審決定でした。

 事件から3年以上が過ぎた昭和63年、警察の取り調べを受けて帰宅した阪原さんは家族に「自白した」ことを告げました。阪原さんは厳しい取り調べの中で、たとえ殴られも蹴られても、自分がやったとは自白しませんでした。しかし、家族が脅(おど)されたり、傷つけられたり、あるいはひどい仕打ちを受けることだけには、どうしても耐えられなかったのです。

2026年1月25日日曜日

「久延彦 REPORT」(28)

  核兵器の開発や保有、使用、使用の威嚇などのあらゆる活動を例外なく禁止する初の国際条約である「核兵器禁止条約」が発効してから、1月22日で5年となりました。広島・原爆ドーム前には市民約100人が集いましたが、主催者の一人は高市政権において政府高官が核保有発言をしたことに言及し、「私たちの被爆国という立場は一体どこに消えてしまったんだろう」と怒りをあらわにしました。また、広島県原爆被害者団体協議会理事長の箕牧智之(みまきとしゆき)氏は、日本政府の姿勢を批判して次のように語りました。

 「私たち被爆者は、核兵器禁止条約を国の内外に訴え続けてきました。それから5年が経ち、世界は私たちの願いとは反対の方向に向かっている。日本政府の考え方は、まさに戦争前夜と言いたいくらいだ。」

2025年12月7日日曜日

「久延彦 REPORT」(23)

 1941年12月8日、日本は米国および英国に対して宣戦を布告し、大東亜戦争の幕が切って落とされました。日本海軍の連合艦隊機動部隊による真珠湾攻撃から始まった対米英戦争の正式名称は「太平洋戦争」ではなく、「大東亜戦争」であることを、改めて私たち日本人は肝に銘じなければならないと思います。

 大東亜戦争という名称についてですが、まず1941年12月10日の大本営政府連絡会議において、「支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決定されます。さらに12月12日の閣議において「今次の対米英戦争及び今後情勢の推移に伴い生起することあるべき戦争は支那事変をも含めて大東亜戦争と呼称す」と明記され、支那事変と対米英戦争を合わせた戦争呼称が「大東亜戦争」であると公式に決定されたのです。

2025年10月8日水曜日

「久延彦 REPORT」(16)

 今年は大東亜戦争終戦80年の節目の年ですが、先の大戦を回顧しつつ「なぜ、あの戦争を避けることができなかったのか」という問題意識を持ち、戦後80年所感の発出にこだわっていた首相がいました。しかし、そもそもこの問題意識に大きな過ちがあるのです。私たちが抱くべき問題意識は「なぜ、あの戦争をしなければならなかったのか」ということです。「なぜ、避けることができなかったのか」ではなく、「なぜ戦わなければならなかったのか」という問いにこそ真摯に向き合うべきなのです。

 日本人はなぜ、戦わなければならなかったのか、それは祖国を守るためでした。愛する祖国を守り、愛する家族を守るために、日本人はたった一つしかない尊い生命を捧げて生きようとしたのです。今年は大東亜戦争の終戦から80年であるとともに、日露戦争の戦勝120年となる年でもありますが、この戦争においても日本人は祖国を守るために戦いました。祖国を守るための戦い、それが戦争の真実なのです。

2025年9月18日木曜日

「久延彦 REPORT」(13)

  9月18日は何の日か知っていますか。1931年9月18日は柳条湖(りゅうじょうこ)事件が起きた日であり、いわゆる「満洲事変」が勃発した日とされています。そして、戦後の学校教育では、満洲事変を契機として、日本は支那大陸への侵略戦争をはじめ、その後およそ15年間にわたる「日中戦争」(この呼称は歴史的には問題があります)の泥沼にのめり込んでしまったと、教えられてきました。そして、満洲事変こそが侵略戦争の始まりであり、その後の日本は植民地支配と侵略戦争によって、アジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えてきたと、多くの日本人は思い込んできたのです。

 しかし、この歴史認識が事実と全く異なり、意図的に捏造されたものであったとしたら、どうでしょうか。満洲事変が侵略ではなく、その翌年に建国された満洲国が日本の傀儡国家(かいらいこっか:形式的には独立しているものの、外部の強国に事実上支配され、操られている国家)などではなかったとしたら、どうでしょうか。大東亜戦争終戦から80年を経た今、満洲事変と満洲国建国について正しく理解することは何よりも大切なことなのです。なぜなら、満洲事変がなぜ起きたのか、また、満州国建国の目的が何であったのか、その真実を知らなければ、私たちは大東亜戦争が日本による侵略戦争ではなかったという歴史の真実に決して出会うことはできないからです。

2025年9月7日日曜日

「久延彦 REPORT」(12)

 大東亜戦争終戦80年を迎えて、戦争に関する企画記事が多く見られましたが、その中で新聞自体が戦争をどのように報道し、どんな論説を主張してきたのか、その検証は全くありませんでした。戦争の責任について問う場合に、政治家や軍部の責任を追及することはあっても、その一方で世論に対して絶大な影響を与えてきた新聞の責任については、あえて封印してきたように思います。

 そこで、当時の新聞が戦争についていかなる報道をしてきたのか、どんな論調を張っていたのか、その一部をご紹介します。例えば、1931年に勃発した満州事変当時、多くの新聞が軍部の行動を積極的に応援しており、時には軍部以上に戦争を強力に後押しする論陣を張っていたことを忘れてはならないのです。その急先鋒が朝日新聞であり、毎日新聞でした。

2025年8月24日日曜日

「久延彦 REPORT」(11)

 「断乎(だんこ)反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし。」

 1945年8月18日、ソ連軍は千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島に数千の兵士を強襲上陸させてきました。この知らせを聞いた第5方面軍司令官であった樋口季一郎中将は、自衛のための戦闘として、ソ連軍を撃滅せよと命じます。この決断により、ソ連軍による北海道占領の野望は阻止されることになりました。つまり、占守島の戦いがあったからこそ、北海道は守られたのです。

 しかし、この歴史の真実をどれだけの日本人が知っているのでしょうか。千島列島を足掛かりとして、北海道までも占領しようとしていたのが、共産主義国家・ソ連であったことを私たちは決して忘れてはならないのです。しかも、ソ連軍が侵攻してきたのは、日本がすでにポツダム宣言を受諾した後の8月18日でした。共産主義国家にとっては国際条約や国際法などは何の価値もなく、ただの紙切れに過ぎないのです。