2025年10月8日水曜日

「久延彦 REPORT」(16)

 今年は大東亜戦争終戦80年の節目の年ですが、先の大戦を回顧しつつ「なぜ、あの戦争を避けることができなかったのか」という問題意識を持ち、戦後80年所感の発出にこだわっていた首相がいました。しかし、そもそもこの問題意識に大きな過ちがあるのです。私たちが抱くべき問題意識は「なぜ、あの戦争をしなければならなかったのか」ということです。「なぜ、避けることができなかったのか」ではなく、「なぜ戦わなければならなかったのか」という問いにこそ真摯に向き合うべきなのです。

 日本人はなぜ、戦わなければならなかったのか、それは祖国を守るためでした。愛する祖国を守り、愛する家族を守るために、日本人はたった一つしかない尊い生命を捧げて生きようとしたのです。今年は大東亜戦争の終戦から80年であるとともに、日露戦争の戦勝120年となる年でもありますが、この戦争においても日本人は祖国を守るために戦いました。祖国を守るための戦い、それが戦争の真実なのです。

 しかし、現代に生きる日本人はどうでしょうか。先の大戦の敗戦により、多くの日本人は祖国に対する誇りと愛国心を失ってしまいました。祖国を守るための戦いとはどのようなものなのか、その意味を問うことさえやめてしまったのです。こういう時代だからこそ、私たちは忘れ去られようとしているある物語を思い起こさなければならないと思います。それは、日露戦争で祖国を守るために戦った日本人の忠君愛国の精神が、祖国を持たない一人のユダヤ人に深い感銘を与えたという物語です。

 そのユダヤ人は日露戦争において捕虜となり、日本の収容所に送られましたが、その後に「イスラエル建国の父」として尊敬されるようになり、また、「片腕の英雄」としてすべてのイスラエル人の心に記憶されるようになりました。そのユダヤ人の名は「ヨセフ・トランペルドール」です。彼が建国の英雄となったその陰には、名もなき一人の日本兵との出会いがあったのです。

 ヨセフ・トランペルドールはロシア帝国出身のユダヤ人であり、日露戦争の際にはロシア兵として日本軍と戦いました。当時のロシア帝国ではユダヤ人に対する差別が公然と行われており、高校進学は制限され、ロシア国内の自由な移動も許されていませんでした。そこでトランペルドールはユダヤ人の地位向上のために、ロシア軍への入隊を決意します。国家のために貢献すれば、ユダヤ人に対する信頼を獲得できると考えたからです。シベリア連隊に配属されたトランペルドールは、日露戦争の旅順攻囲戦で日本軍の放った砲弾により左腕を吹き飛ばされ、負傷します。しかし、トランペルドールは右手に銃を持ちながら、勇敢にも日本軍と戦い続け、片腕の英雄として勇名を馳せることになりました。旅順要塞司令官のステッセル司令官からは「ロシア将兵のお手本である」と称賛されるほどでした。

 1905年1月1日に旅順守備隊は日本軍に降伏し、1万人ほどのロシア兵捕虜は日本の収容所に送られることになりました。その中にはおよそ500名のユダヤ人がおり、トランペルドールもその一人として大阪浜寺の捕虜収容所に連行されます。実は、1899年に開催されたオランダ・ハーグでの第1回万国平和会議では、捕虜・傷病者に対する人道的な扱いが「陸戦法規」により定められていました。日露戦争は会議後初めての大規模戦争であり、国際的にも捕虜の扱いは注視されていたのです。そこで日本は捕虜の扱いには格別に配慮し、国際法に準拠した最大限の待遇を与えたのです。

 捕虜たちはそれぞれ宗教別に棟を分けられ、約500名のユダヤ人は同じ建物で暮らすことができました。また、当時の日本では電気が一般家庭には通っていないにもかかわらず、どの収容所の棟にも電気が通っていました。新鮮な野菜や肉、パンなどもふんだんに配給され、将校には当時のお金で月額3円、兵士には50銭が支給されていたのです。

 トランペルドールは日本人所長に相談し、収容所内に学校をつくる許可を求めました。実はほとんどのロシア兵は読み書きができなかったのです。トランペルドールは捕虜たちにロシア語の読み書きや、算数、歴史、地理などを教えました。さらに、床屋、鍛冶屋、靴職人などを捕虜から探して、職業訓練も行ったのです。こうした活動は捕虜たちに希望と誇りを与えるものでした。トランペルドールの活動は日本国内でも評価されるようになり、やがて明治天皇の知るところとなります。そして、ついに明治天皇との謁見(えっけん)が実現し、義手を賜わる栄誉も授かったのです。その義手はイスラエル北部のテル・ハイ博物館に展示されています。

 また、トランペルドールはユダヤ人のためにユダヤ教の大祭である過越の祭(ペサハ)を行いたいと所長に願い出ました。すると、所長はわざわざ神戸のユダヤ社会と連絡を取り、ユダヤ人捕虜のために酵母のないパン(マッツア)を取り寄せてくれたのです。日本は捕虜に対して非常に寛大であり、ロシアのような宗教による差別がないばかりか、信仰の自由は保障されていました。そして、日本人は他国において迫害しか味わってこなかったユダヤ人に対して、他のロシア人と分け隔てなく厚遇したのです。

 このような体験はトランペルドールの人生において大きな転機ともなりました。ロシアではユダヤ人であるだけで理不尽な差別を受けていたのですが、日本で受けた厚遇はトランペルドールにとっては信じられないものでした。周辺の民家を見渡しても電気すら通っていない貧しい小国日本が、なぜ大国ロシアに勝つことができたのか、トランペルドールはその秘密を探求しようと、一生懸命に日本語を習得しました。そして、日本人の所長から日本について、また日本人の精神世界について、いろいろと教えてもらうようになったのです。

 日本人の精神世界を探求している中で、トランペルドールは収容所で警備をしている一人の日本兵が放った言葉に大きな衝撃を受けます。それは、一人の兵士が語った何気ない言葉だったのですが、トランペルドールにとっては、まさに人生の礎ともなる至宝の言葉となったのです。

 「祖国のために死ぬことほど名誉なことはない。」

 日本兵が語ったこの言葉は、トランペルドールの心に深く刻まれ、生涯忘れることのできないものとなりました。ユダヤ人であるトランペルドールにとって祖国は存在しません。ロシアはユダヤ人にとっての祖国ではなかったのです。祖国を持たないトランペルドールは、パレスチナの地にユダヤ人の祖国を建設する強い志を抱くようになりました。そして、日本の収容所内に125名の捕虜を会員とするシオニスト協会(米国・ニューヨークに本部を置くイスラエル建国を目的とした協会)の日本浜寺支部を設立したのです。ユダヤ人にとってユダヤ人国家の建設は2000年に及ぶ積年の夢でした。トランペルドールは「イスラエルの地に日本を手本にしたユダヤ人国家を建設する」ことを心に誓ったのです。

 トランペルドールは日本人の所長から多くのことを学びました。勤勉で規律を重んじる国民性、私利私欲を捨てて公に尽くす精神、愛国心や尚武の心、さらに、祖先を敬い、家族を大切にするという美徳についてです。そして、このような精神世界の根底にあるものが、万世一系の天皇を中心とする国体であり、日本人の精神の礎となっているものが「教育勅語」にあるということを教えられたのです。

 1905年9月、日露講和条約の締結により、日本に収容されていた捕虜たちは順次ロシアに帰国することになりました。トランペルドールも12月に帰国しますが、間もなく、ユダヤ人で初めての将校として陸軍少尉に任官されます。トランペルドールは祖国建設のためには教育が必要であると感じ、サンクトペテルブルグ大学に進学しました。当時のロシアでユダヤ人が首都であるサンクトペテルブルグに滞在することは許されていませんでしたが、トランペルドールはロシア将校であることから特別に許可されたのです。

 トランペルドールはロシア在住のユダヤ人を募り、パレスチナに移住します。当時のパレスチナはオスマン・トルコ帝国の領土で、パレスチナに移住したユダヤ人たちは、オスマン・トルコの国籍を取得するように強要されました。しかし、トランペルドールたちはこれを拒否し、イギリス領のエジプトに向かいました。そこで、トランペルドールはユダヤ人民兵組織の創設に尽力し、イギリスに働きかけてユダヤ人部隊「シオン騾馬(らば)部隊(Zion Mule Corps)」を結成しますが、これはローマ軍によって滅亡させられて以来、初めてとなるユダヤ人の軍隊でした。この部隊がイスラエル建国の原動力ともなるのです。

 トランペルドールによって結成されたユダヤ人部隊は、1915年12月からトルコのチャナッカレ海峡の岬にあるガリポリ攻略戦に参戦し、イギリス軍として戦います。第一次世界大戦が終わると、オスマン・トルコ帝国は広大な領土を失い、パレスチナはイギリスの委任統治下となりました。そこで、トランペルドールは再びパレスチナに戻り、祖国建設のために尽力するのです。ところが、パレスチナではアラブ人によるユダヤ人への襲撃が後を絶ちませんでした。そして、1920年3月1日、トランペルドールはレバノン国境近くで入植地を守って戦っている最中、アラブ武装集団によって銃撃され、命を落とします。

 トランペルドールは死の間際、駆け寄ってきた戦友に、「俺に構うな」と告げ、かつて浜寺で一人の日本兵から聞いた言葉を言い残し、息を引き取りました。

 「アイン・ダバル トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ(En davar, tov lamut be‘ad artzenu:国のために死ぬことほど名誉なことはない)」

 トランペルドールが戦死した場所には、この言葉が刻印された碑が建てられています。そして、彼の功績をたたえた記念館には、「新しく生まれるユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」という文章が展示されています。トランペルドールが夢見た祖国の建設、イスラエル建国のための戦いは、大阪浜寺での日本人との出会いから始まっていたのです。