2026年4月8日水曜日

「久延彦 REPORT」(34):「平和学習」はいかにあるべきか

  「平和学習」とはいかなるものなのでしょうか。沖縄の辺野古転覆事故をきっかけとして「平和学習」のあり方について議論されていますが、そもそも「平和学習」とはどのようなものであるべきなのでしょうか。結論から言えば、「平和」という言葉が、この問題の本質を見えなくさせているように思います。「平和学習」という言葉を聞いて、その学習を非難することはありませんし、ましてや平和学習そのものに異論を唱え、反論することなど許されないというのが現実です。それほど「平和」という言葉は、非難も反論も許さない絶対的な正義であるかのような言葉なのです。しかし、ここに盲点があります。誤魔化しがあるのです。そこで、「平和学習」はいかにあるべきなのか、その意義について考えてみようと思います。

 まず、最初に確認しておきたいのですが、平和を願う心はすべての人に通じるものであり、誰一人として平和を望まない人はいないということです。古今東西を問わず、すべての人は平和を希求してきました。そして、永遠なる平和を願い、恒久的な平和を祈り続けてきたのです。しかし、私たちは改めて自問自答しなければなりません。すべての人が平和を願い、平和な世界が実現することを心から祈り求めているのに、どうして平和が実現されていないのか。この問いかけは、私たちの思い違いを気づかせ、平和についての勘違いを明らかにしてくれるものなのではないでしょうか。

 ところで、「平和学習」という言葉を聞いて、どのようなことを思い描かれますか。一般的に「平和」はどのような意味に理解されていますか。恐らく、多くの人が「平和」とは、「戦争」がなく、世界が穏やかな状態にあることと理解しているのではないでしょうか。つまり、戦争のない状態、いかなる紛争もいさかいもない状態こそが平和であると思っているのです。そこで、平和学習、あるいは平和運動は、戦争をなくすこと、つまり、戦争に反対するという方向に向かわざるを得なくなるのです。そして、ここにこそ平和学習の落とし穴があるのです。

 私たちはより根源的な問いかけをしなければなりません。誰もが平和を願い、すべての人が平和を望んでいるのに、なぜ戦争が起きるのか、どんな時代でも、戦争や紛争がなくならないのはなぜなのか、という問いかけです。戦争を願う者はいません。戦争がいかに悲惨なものであり、また残酷であり、あまりにも非人道的なものであるか、戦争をしてはならないという歴史の教訓を理解していない人はいないはずなのです。にもかかわらず、戦争は止むことがないのです。それはなぜでしょうか。

 そこには、戦争をしなければならない理由があったからです。戦争に反対することは万人共通の思いです。そして、平和な世界を実現させることもすべての人の願いなのです。しかし、戦争は止むことがありません。それは、平和を守るために、あるいは平和をつくり出すために戦争が行われているからではないでしょうか。私たちは視点を変えなければなりません。心からの平和を願うだけでは、戦争反対をやみくもに唱えるだけでは、真の平和は決して実現しないのです。これこそが歴史が教えてくれる真実なのです。

 そこで、平和学習とはいかにあるべきなのか、その意味を改めて問い直したいと思います。平和について学ぶことは、戦争の悲惨さを学ぶことではありません。平和学習とは、戦争反対を唱えることでも、いかなることがあっても戦争をしてはならないと教えることでもありません。むしろ、誰しも平和を願い、誰もが戦争を望んでいないのに、なぜ戦争はなくならないのか、なぜ戦争しなければならなかったのか、その理由を学ぶことなのです。

 かつての大東亜戦争において、多くの日本人がその尊い生命を捧げ、国家と国民の命運を懸けて戦いました。それは、戦争することを願ったからでしょうか。平和を愛する心を失い、むしろ戦争することに喜びを感じたからでしょうか。決してそうではありません。戦争がいかに悲惨なものであり、私たちの生命だけでなくありとあらゆるものを奪っていくことを知りながらも、先人たちは不断の決意と覚悟をもって大東亜戦争という国家の大事業に心を一つとして邁進したのです。それは、なぜでしょうか。それは、戦争によって奪われるものがあったとしても、それ以上に守らなければならないものがあったからです。一つしかない生命を捧げてでも守らなければならないものがあったからなのです。そのことを知ることなしに、戦争の意味を語ることはできませんし、そのことを学ぶことなしに平和の意味を知ることもできないのです。

 戦争の真の意味とは、平和を実現するために行われるということです。古代ローマ帝国には、次のようなラテン語の格言があります。

 「汝平和を欲さば、戦(いくさ)への備えをせよ」
 Si vis pacem, para bellum(シー・ウィース・パーケム、パラー・ベルム)

 平和を願うことは、戦争への備えをすることであり、本当の平和を望むのであれば、戦争の準備を怠ってはならないというのです。私たちは平和と戦争は相いれない真逆の事柄であると思い違いをしているのですが、実は平和と戦争とは切り離すことができないものなのです。つまり、戦争への準備、つまり、十分な武装によってのみ平和が守られるというのが、偽らざる歴史の教訓なのです。

 例えば、日本で1950年代に参議院議員であった鹿島守之助(かじまもりのすけ・1986-1975)は、戦後日本の平和憲法について次のように批判しました。

 「ローマの昔から『平和を欲するならば、戦いに備えよ』との格言があるように、なんらの軍備も持たずに、ただ平和、平和と口先だけの題目をとなえるのは、決して平和を保持するゆえんではない。」

 また、著名な憲法学者である宮澤俊義(みやざわとしよし・1899-1976)は、武装によって維持される平和が必ずしも恒久的な平和ではないことを前提としつつも、平和を維持するための武装がいかに大切なものであるか、その意義を次のように論じています。

 「歴史上、現実に可能となった平和は『ローマの平和(パックス・ロマーナ)』から国際連盟時代に至るまで、すべて多かれ少なかれ武装せられた平和であった。それはあるいは真の平和と呼ばるべきものではないかも知れない。しかし、人間はいままで実際にこれ以外の平和をもった経験がないのである。」

 「平和学習」とはいかにあるべきなのか。それは、戦争反対の声によって平和は決してもたらされないという峻厳たる事実を教えることであり、平和を維持するための唯一の手段が武装することであるという歴史の教訓を教えることです。平和は何よりも尊いものです。誰もが心から希求してやまないものが平和です。だからこそ、国家と国民は戦争することも厭(いと)わず、たった一つの尊い生命までも惜しまずに捧げて、平和を守ろうとしてきたのです。あるべき「平和学習」とは、いかにして尊い平和を守ることができるのか、そのことを歴史を鑑(かがみ)として教えることなのです。