大東亜戦争終戦80年を迎えて、戦争に関する企画記事が多く見られましたが、その中で新聞自体が戦争をどのように報道し、どんな論説を主張してきたのか、その検証は全くありませんでした。戦争の責任について問う場合に、政治家や軍部の責任を追及することはあっても、その一方で世論に対して絶大な影響を与えてきた新聞の責任については、あえて封印してきたように思います。
そこで、当時の新聞が戦争についていかなる報道をしてきたのか、どんな論調を張っていたのか、その一部をご紹介します。例えば、1931年に勃発した満州事変当時、多くの新聞が軍部の行動を積極的に応援しており、時には軍部以上に戦争を強力に後押しする論陣を張っていたことを忘れてはならないのです。その急先鋒が朝日新聞であり、毎日新聞でした。
1931年9月18日、満州の奉天郊外での柳条湖(りゅうじょうこ)事件を契機として満州事変が始まります。そこで、9月24日に時の若槻礼次郎内閣は事件不拡大と外交交渉による解決を目指し、「満州事変に関する政府第一声明」を発表します。若槻内閣は関東軍の独走を抑えようとしましたが、それに対して朝日は関東軍を支持し、軍による積極的な行動を擁護しました。また、朝日に負けじと毎日は「われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望する」(1931年10月1日付社説)との論説を掲載していたのです。
また、1933年2月には国際連盟総会において、満州事変における関東軍の軍事行動が非難され、日本の自衛行動を認めないリットン報告書が可決されることになりました。これを不服とした松岡洋右(ようすけ)代表は議場から退場し、連盟脱退に追い込まれかねない外交的危機を招くことになりました。松岡代表自身はそれを外交的失敗と捉え、政界引退まで考えたほどでした。
ところが、朝日は松岡代表の大応援を演じます。「松岡代表鉄火の熱弁、勧告書を徹底的に爆撃 連盟に最後反省を促す」(1933年2月25日付)と松岡代表を礼賛(らいさん)し、あたかも英雄であるかのように論じています。この記事に対しては、松岡代表自身が「驚いたり、自分の耳を疑ったりした」と率直な胸の内を明かしていました。つまり、当時の新聞メディアがいかに力による外交を称賛し、軍部による積極的な戦争を支持し、さらに国民世論を好戦ムードに誘導していたかが分かるのです。
当時の新聞は支那事変勃発後の南京陥落については陸軍の偉業を熱狂的に報じ、日独伊三国同盟締結は「歴史的必然」であると諸手を挙げて賛成し、大東亜戦争へと国民を駆り立てていく、まさに「戦争屋」となっていたのです。
朝日新聞は、1945年5月15日付の社説で「沖縄決戦に総進撃せん」と題して、次のような主張を述べていました。
「沖縄決戦は全世界の注視するところ、況(いわ)んやわれら一億国民に於いてをや。全身全霊をもって凝視し、祈念し、挺身(ていしん)をもって特攻を辞せざるの覚悟である。・・・一億特攻とは、個人個人がバラバラにて戦ふことではない。一億総力が纏(まと)まりたる近代戦力として、怒涛の如く体当たりして、来寇(らいこう)敵軍を叩きのめし、撃ち払うことにある。」
何とも勇ましい社説ではありませんか。沖縄戦が捨て石の戦いであり、本土決戦を遅らせるための犠牲であったことなど、微塵(みじん)も感じさせない一億総特攻精神を鼓舞する社説ではありませんか。朝日新聞がどうして戦後豹変し、それまでの主張と真逆の論陣を張るようになったのか、その理由はひとえに新聞社の存続を考えたからでした。結局は社会の公器であるとされる新聞社も、自社の存続以上に大切なことはなかったということなのです。
今年8月30日付の毎日新聞のコラム欄には「戦争反対はなぜ敗れたのか」と題して、次のような記事が掲載されていました。
「日本の新聞は戦争とともに大きくなった。売れるからだ。戦争に反対すると売れなくなる。新聞も商品である。経営が成り立たなければ、言論の独立はない。」
何とも悲壮な弁明ですが、ここには新聞社の本音が見事に表現されています。つまり、売れるか売れないか、それが何よりも大切なのであり、国家国民のことなどどうでもいいのです。売れると分かれば、どんなことでも記事にする、売れない話題なら、それがいかに正義であり、真実であっても、記事にする必要はない。
社会の公器としての新聞はその良心を取り戻さない限り、もはや存在意義は失われてしまうでしょう。政府や軍部の戦争責任を問う前に、新聞は率先して国民を戦争へと駆り立ててきたという自らの責任を認めて、自らを厳しく検証すべきなのです。