3月16日、沖縄県名護市の辺野古沖で18人の高校生を乗せた抗議船が転覆し、17歳の女子高生と「不屈」の船長の2人が死亡するという痛ましい事故がありました。また、乗船していた14人も重軽傷を負うという近年でも稀な重大事故でした。ところが、不思議なことに主要メディアは、この事故についてほとんど取り上げることがなく、沈黙し続けています。ところで、「ヘリ基地反対協議会」が運航する抗議船に高校生を乗せることが、本当に「平和学習」となるのでしょうか。辺野古沖で行われた「平和学習」とはいかなるものだったのか、そのことについて論じてみようと思います。
まず、「ヘリ基地反対協議会」の関係者、あるいは抗議活動の支援者の方たちが、今回の転覆事故についてどのようなコメントを発しているのか、その内容についてご紹介しますが、ここにも「平和学習」に潜む闇を感じてなりません。
「そもそも、辺野古の新基地建設をいつまでも続けるのが悪いんです。海を埋め立てるのが悪い。こんなことをしなかったら、事故も起こらなかった。」(社民党・服部良一幹事長)
「思いはきっと『辺野古のこんな無謀な工事はやめてくれ』っていう意味で辺野古に来ていただいたと思うんですね。」(「ヘリ基地反対協議会」関係者の発言)
「私は同志社大学教授を20年務めたが、同校は沖縄で平和学習をしていた。ネトウヨが新基地反対闘争が続く辺野古での学習を非難しているが、反対派を敵視する海保が速やかに救助したか検証が必要だ。」(左翼学者・浅野健一)
地元の漁師からは、「なぜあの状況で船を出し、あの海域に入ったのか」と疑問の声が上がり、気象庁はうねりを伴う波の高さを3mと予想し、波浪注意報を出し、第11管区海上保安本部は事故直前に2隻の抗議船に対して注意喚起をしていました。現場は波がうねる危険な海域として知られており、漁師の一人は「あのような日に船を出すことは自殺行為に等しい」と悲痛な思いを吐露していました。このような危険な海域に高校生を乗船させ、移設工事の進む辺野古を見学することがどうして、「平和学習」になるのでしょうか。
ところが、抗議活動をしている人、また、その支援者からは、反省や謝罪の言葉よりも責任転嫁の言葉が次々と出てくるのです。「海を埋め立てるのが悪いんです。こんなことをしなかったら、事故も起こらなかった。本当に、我々は悔しくてたまりません」という発言には異様な違和感を覚えます。いったい、何が悔しくてたまらないのでしょうか。実は、この悔しさの正体は、次のような言葉により明らかにされることになります。
「こうした事故によって平和学習に対するバッシングが来ないように、関係者、力合わせてこの危機を乗り越えていきたいと心から念じている。」(服部良一幹事長)
辺野古工事に反対する人々の悔しさとは、この事故を契機として平和学習ができなくなることであり、抗議活動そのものが制限されることなのです。ひいては支援金を集めることが困難になる、それが悔しいのであり、この危機をいかに乗り越えていくのか、そのことで頭がいっぱいなのです。
女子高生の余りに理不尽な死を悼(いた)む気持ちも、人災とも言える悲痛な事故を引き起こした責任さえも、さほど感じていないのではないか、しかし、これこそが「ヘリ基地反対協議会」や、その支援者たちが願う「平和」の姿です。彼らが信じる「平和」とはどのようなものなのでしょうか。それは彼らの言動そのものを知ればあまりにも明白です。
辺野古工事反対という主張から明らかなことは、彼らにとっての「平和」は必ず「反戦平和」という言葉と結びつきます。さらに、「反戦平和」はあらゆる意味での「免罪符」となります。つまり、反基地活動は何をしても無罪であり、反基地だけが絶対的な正義であると信じ込んでいるのです。その結果として、反基地活動を阻止するものはすべて悪であり、辺野古工事を推進している政府は絶対的な悪の主体となります。すると、悪なる政府が定めた法律や制度、あるいは細かな諸規則に至るまで、それらは反戦平和運動を阻害するためのものであるから、守る必要もなければ、守ることは悪なる政府に屈することになると本気で思い込んでいるのです。
したがって、反戦平和運動の信念からは次のような驚くべき結論が導き出されるのです。諸悪の根源は政府であり、さらには沖縄においては米国であり、反政府・反米こそが、絶対的な正義であるということです。すると、何かの事故が起きたとしても、「自分たちに非があった」とは絶対になりません。事故が起きても、最悪の場合には死者が出たとしても、亡くなった方やその遺族に対して申し訳ないという気持ちにはなりません。それよりも「政府が悪い」という怒りが込み上げてくるだけなのです。
そのように考えると、社民党幹事長やヘリ基地反対協議会の関係者が、なぜ責任転嫁とも言えるような発言を繰り返し、辺野古工事の反対を絶対正義とすることができるのか、その理由が分かると思います。だからこそ、女子高生の死を悼む心よりも、「海を埋め立てるのが悪い。こんなことをしなかったら、事故も起こらなかった」という怒りが心に溢れてくるのです。そして、亡くなった女子高生の心の内を「思いはきっと『辺野古のこんな無謀な工事はやめてくれ』」だったと決めつけ、勝手な正義感で自分たちの行動を正当化するのです。
辺野古工事に反対する活動家やその支援者の「平和」とは、自分たちの正義が行われることであり、その正義を貫くためにはたとえ人命が失われたとしても、それは全く意に介さず、とにかく「平和学習」という美名の下で反政府・反米活動ができることなのです。そして、そのための支援金が全国から集められ、何不自由なく抗議活動をしている時間こそが幸福なひと時であり、それが可能である状態こそが彼らの理想とする「平和」なのです。
因みに、「ヘリ基地反対協議会」を支援してきた「辺野古基金」というものがありますが、その共同代表の一人が宮崎駿(はやお)監督です。また、辺野古での反対活動している活動家の一人は「新基地建設に反対する国内外の団体から支援があり、平和をこよなく愛する中国のからの寄付が一番多い」ことを認めています。2026年3月15日時点での「辺野古基金」への寄付額は8億512万9371円となっていました。「ヘリ基地反対協議会」が運航する抗議船で危険極まりない辺野古沖に出かけることが、どうして「平和学習」になるのでしょうか。そのような活動に加わることで学ぶ平和とはいかなるものなのでしょうか。ここには「平和学習」という美名に隠された深い闇があり、偽りの平和を植え付けようとする悪魔の罠が仕掛けられているのです。
最後に、信じられないような証言があります。しかし、これこそが反政府・反米活動の実態であり、反戦平和活動の真実です。これは2004年に沖縄国際大学の構内に米軍ヘリコプターが墜落した事件が起きた後、当時のPTAの集まりで、平和活動をしていた一人のPTA会員がヘリ墜落事件について語った言葉です。
「惜しかったね。一人でも死んでくれたら普天間(飛行場)を動かせたんですけどね。」
反基地活動家にとって、何よりも大切なことは米軍基地の撤去であり、人の命さえもその目的のためには手段となってしまうのです。耳を疑うような発言ですが、この発言を聞いて思い出すことがあります。それは、おぞましい共産党による独裁支配を行ったソ連のスターリンの言葉です。「平和主義は共産主義のベールだよ、ベール」。まさに、「平和学習」とは、共産主義活動を隠すためのベールであり、彼らの悪事が気付かれないための隠れ蓑だったのです。反政府・反米に染め上げられたいかなる「平和学習」も金輪際(こんりんざい)やめるべきです。これが、亡くなった女子高生の声ならぬ声であり、私たちが今なすべき心からの追悼ではないかと思います。この事故を契機として、偽善と私利私欲にまみれた「平和学習」が廃止され、真の平和学習が行われることを切望します。