9月10日、米国の保守活動家であるチャーリー・カーク氏が米西部ユタ州の大学で銃撃され暗殺されました。約3000人の聴衆を前に演説していた最中の出来事でした。12日に捜査当局は同州在住のタイラー・ロビンソン容疑者を逮捕しましたが、この人物はトランスジェンダーの権利擁護と反ファシズムを訴える政治思想の持ち主であったことが分かっています。容疑者の家族によれば、犯行前に夕食の席でカーク氏が大学を訪問して演説することに言及し、カーク氏は「憎しみに満ち、憎しみを広めている」と非難していたことを証言しています。
では、この暗殺事件について、マスメディアや左翼リベラルと称される人物はどのような論評をしているのでしょうか。今回は日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」の記事について紹介します。事件後の14日付の記事では、この事件に関する解説記事として、米国では政治家を標的とした暴力が頻発していることを紹介した上で、その背景を次のように分析しています。
「トランプ米大統領が国民の分断や対立をあおり、暴力をきっぱりと批判する姿勢を貫いていない問題が指摘されています。」
トランプ大統領が分断をあおっていると非難しているのは、一部の左翼リベラル系のマスメディアや言論人だけであることを、私たちは決して看過してはなりません。はっきり言いますが、米国の分断の始まりはトランプ政権からではありません。分断の元凶はオバマ政権であり、そこから始まった米国の分断を修復し、本来の米国を取り戻すために登場したのがトランプ政権なのです。つまり、分断の始まりがトランプ政権なのではなく、米国の分断を終わらせるために選ばれたのがトランプ大統領なのです。
左翼メディアやリベラル派と称する知識人の論理には一つの特徴があります。それは、自己の目的を果たすためには暴力や殺害をも肯定するということであり、さらには表面的には善人を装って暴力や殺害を非難しながらも、結局は、惨劇を引き起こした原因は、つねに被害者の言動にあるとして責任を転嫁することです。その証拠に、カーク氏の暗殺に関しても、犯人を非難するように見せかけてはいますが、実はその本音においてはトランプ大統領の分断と対立をあおる姿勢こそが、すべての原因であるかのように、カーク氏暗殺の責任をトランプ大統領に転嫁し、批判の矛先を向けているのです。
実は、このことは日本において全く同様です。2022年7月8日、安倍晋三元首相が参議院選挙の選挙演説中に狙撃され、暗殺されましたが、この時も非難の矛先を向けられたのは、殺人者の山上容疑者ではありませんでした。いかなる動機や背景があるにせよ、安倍元首相が暗殺されたことは国民がこぞって嘆き悼(いた)むべき悲劇であり、暗殺を容認することなど考えられないことです。それこそ、鬼畜の業ではないでしょうか。しかし、このような鬼畜の業を行っていたのが、左翼リベラル派の言論人やマスメディアだったのです。
安倍元首相が暗殺されたという知らせを聞いた左翼漫画家の石坂啓氏は「でかした」と喜び、その後、暗殺犯を「山上様」と呼ぶようにしていると公言しました。また、元文部科学事務次官の前川喜平氏は、同年10月、安倍元首相が殺害されたことについて「気の毒とは思ったけど悲しいとは思わなかった」と発言しました。これが日本の教育行政を所管する省庁のトップを務めた人の発言でしょうか。さらに、2023年4月配信のあるネット番組で法政大学の左翼教授である島田雅彦氏(作家でもある島田氏は2010年より芥川賞選考委員を務めている)は安倍元首相の暗殺事件に触れて、「暗殺が成功してよかった」と語っているのです。そして、これを聞いていた左翼リベラル派のジャーナリストである青木理(あおきおさむ)氏は笑みを浮かべてさえいました。
また、2020年9月、安倍首相が体調悪化を理由に辞任することになりました。7年9か月にわたり国政を担ってきたその労苦を思い、歌手の松任谷由実氏は「辞任記者会見の様子を見て思わず涙がこぼれました」と語りました。それに対して、京都精華大学の白井聡准教授は「夭折(ようせつ)すべきだったね」とツイートしたのです。「夭折」とは、年若くして死ぬことです。白井准教授は安倍首相の辞任会見に泣いたという松任谷氏はもっと早く死んでおくべきだったと言っているのです。なぜ、このような発言が繰り返されるのでしょうか。左翼リベラルを自称する知識人や大学教授の口から次から次に出てくる発言には、もはや人間性のかけらもありません。これが人間の語る言葉なのかと唖然とするばかりです。自分たちの価値観にそぐわない思想や信念を持つ人たちを排除し、軽蔑することをためらわない、これが左翼リベラルの正体であり、多様性や寛容を声高に叫ぶ人権派と呼ばれる人たちの本性なのです。
9月21日に行われたチャーリー・カーク氏の追悼式典には、全米から10万人近くの参加者が長い列を作り、カーク氏の功績を称賛し、心からの哀悼を捧げました。参加者の視線を一身に集めて壇上に立ったのは、カーク氏の妻であるエリカ・カーク氏でした。真っ白い服を着たエリカ氏は涙をこらえつつ、イエスが十字架で亡くなられた時、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったことに触れながら、次のように語りました。
「あの若者(容疑者)を私は許します。キリストはそうしました。チャーリーならそうすると思います。だから私は彼を許します。憎しみへの答えは憎しみではなく、愛です。私たちは福音からそれを知りました。」
チャーリー・カーク氏は全米の高校・大学のキャンパスで保守的な思想を広めるために献身的な歩みをしました。そのやり方は、公の場に座って、どんなテーマであれ、どんな思想の持ち主であれ、誰とでも議論することでした。それは、一人でも多くの若者を急進的なマルクス思想から救うためでした。エリカ氏はそのような夫の宗教的信念について、「私の夫チャーリーは、彼の命を奪った若者と同じような若者たちを救いたいと思っていました。彼の命を奪ったあの人もそのうちの一人です」と涙をぬぐいながら語りました。
安倍昭恵夫人も、夫(安倍元首相)を狙撃した被告について、目を真っ赤にし、声を絞り出すようにして、次のように話したことがありました。
「私はただ、罪を憎んで、人を憎まず。加害者(山上被告)を許します。相手を恨んだり、憎んだりするのではなく、どうしたらよりよい社会になるのかを考えたいと思います。」
安倍元首相の暗殺について、「成功してよかった」と語り、その言葉に笑みを浮かべ、「気の毒とは思ったけれど悲しいとは思わなかった」と発言する人々がいます。「でかした」と嬉々として人の死を喜び、殺人者を「山上様」と呼ぶ人がいます。人の死を何だと思っているのでしょうか。遺族の悲しみをどのように思っているのでしょうか。
安倍昭恵夫人やカーク氏の妻であるエリカ氏の言葉には、憎しみや恨みを心の奥底に沈めて、敵を愛し、迫害する者のために祈りを捧げる崇高な精神があります。それは、イエス・キリストが「わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書 5章44節)、と語られた愛の教えに通じるものでもあります。
しかし、暴虐がはびこり、人の心が恨みや憎しみに満ち、人の思い計ることが悪いことばかりであるような時代に、また、尊厳ある人の死を喜び、殺人者を称賛するような冷酷で残虐な不義なる時代に、私たちの本心は何を願っているのでしょうか。こういう時代だからこそ、私たちは正義が行われ、善が行われることを求めているのではないでしょうか。
チャーリー・カーク氏の追悼式典に参加したトランプ大統領は、正義が行われ、善が行われることを願う心から、次のように語りました。
「彼(カーク氏)は高潔な精神と偉大なる目的をもった伝道者でした。“敵対者”を憎むことはありませんでした。彼らの幸福を願っていました。そこが、チャーリーと私との違いです。私は“敵”を憎み、彼らの幸福など望みません。そこはエリカ、申し訳ない。」
トランプ大統領の言葉に峻厳なる愛を感じるのは私だけでしょうか。国家の指導者が暗殺という蛮行に対して許しではなく正義を、愛ではなく裁きを語ることこそ、悪に立ち向かう最良の方法ではないでしょうか。国家が正義を行い、善を励行すること、そして、悪を糾弾し、殺戮(さつりく)と暴力には審判を下すこと、これこそが国家存立の土台であり、国家と国民の信頼関係を支える礎なのです。トランプ大統領の言葉は、エリカ氏にとって最大の慰めと癒しを与えたのではないでしょうか。なぜなら、このような勇気ある毅然とした正義の言葉こそが、今の曲がった不義なる時代から私たちを救うからです。
安倍昭恵夫人の本当の悲しみとは、夫を失ったこと以上に、トランプ大統領のような言葉を語る人に出会うことができなかったことではないでしょうか。そればかりか、いまだに失った夫のことを誹謗し、侮辱し、蔑(さげす)む言葉を聞かなければならないことほど、冷酷で残忍な仕打ちはないのではないでしょうか。日本にトランプ大統領のような政治家が一人もいないことこそが、日本の悲劇であり、日本国民の不幸なのです。