2025年10月8日水曜日

「久延彦 REPORT」(16)

 今年は大東亜戦争終戦80年の節目の年ですが、先の大戦を回顧しつつ「なぜ、あの戦争を避けることができなかったのか」という問題意識を持ち、戦後80年所感の発出にこだわっていた首相がいました。しかし、そもそもこの問題意識に大きな過ちがあるのです。私たちが抱くべき問題意識は「なぜ、あの戦争をしなければならなかったのか」ということです。「なぜ、避けることができなかったのか」ではなく、「なぜ戦わなければならなかったのか」という問いにこそ真摯に向き合うべきなのです。

 日本人はなぜ、戦わなければならなかったのか、それは祖国を守るためでした。愛する祖国を守り、愛する家族を守るために、日本人はたった一つしかない尊い生命を捧げて生きようとしたのです。今年は大東亜戦争の終戦から80年であるとともに、日露戦争の戦勝120年となる年でもありますが、この戦争においても日本人は祖国を守るために戦いました。祖国を守るための戦い、それが戦争の真実なのです。

2025年10月1日水曜日

「久延彦 REPORT」(15)

 9月21日、台湾の国立政治大学(台北市)で「安倍晋三研究センター」の設立大会が開催されましたが、台湾の大学が内外の政治家の名を冠した研究機関を設置するのは初めてのことでした。また、この日は安倍晋三元首相の誕生日であり、あえてこの日を選んで「安倍晋三研究センター」が設立されたことに、台湾の人々の安倍元首相に対する並々ならぬ思いをうかがい知ることができます。

 この日の設立大会には頼清徳総統も出席し、あいさつの中で「安倍元首相の死去は日本の損失であるだけでなく台湾と全世界の損失だ」と述べました。また、安倍元首相の「台湾有事は日本有事」との発言や、「自由で開かれたインド太平洋」という外交戦略の意義について触れた上で、次のように語りました。

2025年9月24日水曜日

「久延彦 REPORT」(14)

 9月10日、米国の保守活動家であるチャーリー・カーク氏が米西部ユタ州の大学で銃撃され暗殺されました。約3000人の聴衆を前に演説していた最中の出来事でした。12日に捜査当局は同州在住のタイラー・ロビンソン容疑者を逮捕しましたが、この人物はトランスジェンダーの権利擁護と反ファシズムを訴える政治思想の持ち主であったことが分かっています。容疑者の家族によれば、犯行前に夕食の席でカーク氏が大学を訪問して演説することに言及し、カーク氏は「憎しみに満ち、憎しみを広めている」と非難していたことを証言しています。

 では、この暗殺事件について、マスメディアや左翼リベラルと称される人物はどのような論評をしているのでしょうか。今回は日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」の記事について紹介します。事件後の14日付の記事では、この事件に関する解説記事として、米国では政治家を標的とした暴力が頻発していることを紹介した上で、その背景を次のように分析しています。

2025年9月18日木曜日

「久延彦 REPORT」(13)

  9月18日は何の日か知っていますか。1931年9月18日は柳条湖(りゅうじょうこ)事件が起きた日であり、いわゆる「満洲事変」が勃発した日とされています。そして、戦後の学校教育では、満洲事変を契機として、日本は支那大陸への侵略戦争をはじめ、その後およそ15年間にわたる「日中戦争」(この呼称は歴史的には問題があります)の泥沼にのめり込んでしまったと、教えられてきました。そして、満洲事変こそが侵略戦争の始まりであり、その後の日本は植民地支配と侵略戦争によって、アジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えてきたと、多くの日本人は思い込んできたのです。

 しかし、この歴史認識が事実と全く異なり、意図的に捏造されたものであったとしたら、どうでしょうか。満洲事変が侵略ではなく、その翌年に建国された満洲国が日本の傀儡国家(かいらいこっか:形式的には独立しているものの、外部の強国に事実上支配され、操られている国家)などではなかったとしたら、どうでしょうか。大東亜戦争終戦から80年を経た今、満洲事変と満洲国建国について正しく理解することは何よりも大切なことなのです。なぜなら、満洲事変がなぜ起きたのか、また、満州国建国の目的が何であったのか、その真実を知らなければ、私たちは大東亜戦争が日本による侵略戦争ではなかったという歴史の真実に決して出会うことはできないからです。

2025年9月7日日曜日

「久延彦 REPORT」(12)

 大東亜戦争終戦80年を迎えて、戦争に関する企画記事が多く見られましたが、その中で新聞自体が戦争をどのように報道し、どんな論説を主張してきたのか、その検証は全くありませんでした。戦争の責任について問う場合に、政治家や軍部の責任を追及することはあっても、その一方で世論に対して絶大な影響を与えてきた新聞の責任については、あえて封印してきたように思います。

 そこで、当時の新聞が戦争についていかなる報道をしてきたのか、どんな論調を張っていたのか、その一部をご紹介します。例えば、1931年に勃発した満州事変当時、多くの新聞が軍部の行動を積極的に応援しており、時には軍部以上に戦争を強力に後押しする論陣を張っていたことを忘れてはならないのです。その急先鋒が朝日新聞であり、毎日新聞でした。

2025年8月24日日曜日

「久延彦 REPORT」(11)

 「断乎(だんこ)反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし。」

 1945年8月18日、ソ連軍は千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島に数千の兵士を強襲上陸させてきました。この知らせを聞いた第5方面軍司令官であった樋口季一郎中将は、自衛のための戦闘として、ソ連軍を撃滅せよと命じます。この決断により、ソ連軍による北海道占領の野望は阻止されることになりました。つまり、占守島の戦いがあったからこそ、北海道は守られたのです。

 しかし、この歴史の真実をどれだけの日本人が知っているのでしょうか。千島列島を足掛かりとして、北海道までも占領しようとしていたのが、共産主義国家・ソ連であったことを私たちは決して忘れてはならないのです。しかも、ソ連軍が侵攻してきたのは、日本がすでにポツダム宣言を受諾した後の8月18日でした。共産主義国家にとっては国際条約や国際法などは何の価値もなく、ただの紙切れに過ぎないのです。

2025年8月20日水曜日

「久延彦 REPORT」(10)

  大東亜戦争終戦80年を迎え、8月15日の「終戦の日」に、念願かなって靖国神社に参拝することができました。靖国神社の境内に入って直ぐに感じたことは、「ここに真の日本がある」という実感でした。第一鳥居で一礼し、さらに進んで行くと、そこかしこに美しい日本の国旗がたなびいていました。

 白地に赤く 日の丸染めて ああ美しや 日本の旗は

 夏の青空に映えて、日の丸が掲げられ、風にたなびく美しさは格別なものでした。美しい日本の旗が、誰にもはばかることなく掲げられ、誇らしくたなびいている、まさに靖国の社において日本の国旗が生命の息吹を取り戻しているように感じました。